ザリガニ

水妖の音楽


 赤い絵の具を塗りたくったかのような夕焼け空を見上げながら、日本文化を研究しているT氏は細いあぜ道をゆっくりと歩いていた。今は夏。ちょうど、お盆のころで、うだるような暑さで人々を苦しませる都市から、遠くはなれた片田舎に帰省していたのだ。

 赤とんぼがそばを通り過ぎた。T氏は、田んぼの脇にある溝に目を凝らしてみた。既に夕暮れということで詳細に水の中を見ることはできなかったが、懐かしい姿を目にすることができた。

 1匹のザリガニだった。それは、T氏が子供のころ見ていたものと少し違う気がした。なぜなら、はさみの1部が小さかったからだ。T氏は、奇形なのだろうと考えた。それは昔、高校生だったころに読んだ本の知識を照らし合わせてである。

 ただのザリガニのはずなのだが、T氏は気になってしかたがなかった。とりあず、捕まえて家に持ち帰ろうとして、溝のそばから落ちないように気をつけて手を伸ばしたが、あいにく手が背中の殻に触れた瞬間、一目散にザリガニは溝にあった小さな小さな穴に入ってしまった。

 T氏は諦めて、再び夕焼け空を見上げながら、久々に訪れている親の家へと急いだ。


 夕食の前に家に帰ると、T氏の母親が既に料理を作り終えていた。T氏は慌てて手を洗い、席に着いた。T氏の父親が、ビールをみんなのコップにつぎながらT氏に語りかけた。

「この間、お前の押し入れを整理していたら懐かしいものを見つけたぞ」

「懐かしいもの?」

「そうだ、懐かしいものだ。後でちょっくら見てくるがいい」

 そういうと、T氏の父親は目の前のほっけをつつき始めた。隣に座っていたT氏の妻が、もしかしていやらしいものなのかと訊くような顔をしていた。

「違うよ」T氏は自分の妻にそう言った。


 お酒が入り、そんなに強くない父親はソファーに寝転んで寝てしまっていた。母親とT氏の妻は後片付けをすると言うことなので、T氏はつまらないと思い、2階の自分の部屋に行った。

 何年ぶりの帰郷だろう。大学を出てときどきは帰ったが、准教授になったころから仕事が忙しいをいいわけにしてずっと帰郷をしてこなかった。かつて、一生懸命勉強するときに使った机は埃まみれかと思ったが、綺麗に掃除されていた。父親が言った通り帰郷前に掃除をしたのだろう。

 T氏は、机の前にある窓から外を覗いた。すでに9時を過ぎていたので、田舎の夜は暗かったが、それでもあぜ道のところどころに、とぎれとぎれに電灯がついていた。その光景は、まるで人魂がぽつぽつと並んでいるようにも見えた。そういう想像を振り払って、T氏は後ろにある押し入れに目を向けた。子供のときから使ってきたため、すっかり色落ちしていた。その古い板に触るとギシギシいった。

 思い切って押し入れを開くとなんてことはない、少年時代に集めた本やら、服やらが詰め込んであった。しばらくして、むっとほこりくさい匂いが立ちこめた。その匂いはどこか独特な雰囲気て、なんとなく子供臭さを残したようなものだった。

 T氏は小学校のときに貰った、赤い背表紙のアルバムを開けてみた。そこはありふれた普通の小学生だった自分が写っており、この頃の自分がなんにでもなれると信じていた最後の年だったというのを思い起こすと、なんとなくうれしい気持ちになった。

「これが、老いか……」

 T氏はぽつんと呟いた。

 永遠に続くと思われた日々。あの頃はどれほどよかったと昔を懐かしむ老人を子供の頃は軽蔑していたが、今ならばそういっていた老人の意味も分かる。何より知らなすぎた。無知なままであった。それが、悪いとは思わない。人生無知でいていい時期は、唯一この時期なのだから……。

 

 ふと、物思いに更けていた自分から我に返って辺りを見渡した。部屋の隅に掛けてあった壁時計を見ると部屋に入ってそんなに経っていなかった。手元のアルバムをもとのところにしまい、T氏は再び押し入れを物色し始めた。

 誕生日にもらったガラクタ。恋の辛さから忘れようと買った時代小説。夢中になって集めた瓶のふた。100点満点のテスト用紙。

 すべてがすべて、自分に想い出を語ってくれる。とうの昔に自分は忘れてしまったと思っていたのに、以外と思い出せる自分に驚いた。

 すると、何やら白い物体を見つけた。何かと思って取り出すと、それは小さな何かの殻だった。いや、今日見たではないか。ザリガニの抜け殻だった。

「どうして……こんなものが……」

 必死にT氏は記憶を探ったが一向に出て来なかった。うんうんうなっているところに、下で食器洗いを終えた妻が部屋に入ってきた。

「何をしているの? わっ。これって」

「ああ。昔の自分の私物だよ」

「まだこんなに残っていたんだね」

「そうだな。まだ両親が残しているとは思わなかった」

「ねえ。アルバムとかもあるの?」

 妻がそう訊いてくるので、T氏は先程取り出したアルバムを引っ張りだして妻に持たせた。

「それが、私が小学生のころのアルバムだよ。下のリビングで見てきなさい」

「へえ」

 そういいながら、しみが付いたアルバムを撫でさすりながら持って行った。

 再び部屋は静寂になった。遠くで蝉が鳴いている気がした。T氏は、ザリガニも抜け殻以外を押し入れにしまい込んでから、抜け殻を持って勉強机の椅子を引っ張りだしてそこに腰掛けた。サイズが中学生ぐらいのものを買ってもらったので、すこし座りにくい感じがした。そして、机の引き出しを開けてみるとルーペがあったので取り出してしみじみと眺めてみた。


 結局どれほど眺めても何も心当たりはなかった。唯一気になったのが、ザリガニのちょうど心臓のあたる部分だけ、ちょっぴりピンク色に色づいている気がした。ここら辺ではよくザリガニが捕れたから、抜け殻をみつけて幼いながら記念に残したのだろうと言う風に考えた。壁の時計をながめると1時間経っていた。もう、こんな時間かと思い、T氏は机のうえにザリガニの抜け殻を放置して、階下のリビングへと下りていった。そこから、先に両親をお風呂にいれ、次に妻と2人でお風呂に入り、先に寝てしまった両親にかわって家の戸締まりを確認した後、1階の客室にあらかじめ置いてもらった蒲団を敷いた。まだ、蝉が鳴いていたことを妻が気にした。

「このあたりではよくあることだよ」

 T氏はそういって、妻を先に寝かしつけ、続いて自分も蒲団にもぐりこんだ。このときにはザリガニの抜け殻は忘れてしまっていた。


 T氏はこれが夢だとすぐさま分かった。なぜなら、遠い昔に亡くなってしまった母方のおばあさんがT氏の手をつないでいたからだ。しかし、夢だとしてもT氏は目覚めることはできなかった。

 そこは、小さな池があった。おばあさんの近所にあった池だろう。T氏が子供のころ、よくお盆にはおばあさんの家に行くことになっていた。お手伝いさんが1人一緒に暮らしていて、おじいさんはT氏が生まれたその年に亡くなっていた。しかし、おばあさんはおじいさんが亡くなっても悲しみを家族に見せることなく、剛毅に笑い、T氏にはもっとわがままになれとよく言っていた。T氏は引っ込み思案で、人前に出るのが苦手であった。それを両親はおばあさんに話していたのだろう。

 おばあさんはよく日中その池にT氏を連れ出していた。田舎で遊ぶものがなかったから、おばあさんなりの気遣いだったのだろう。よく先程の池にT氏を連れ立って行っていた。そこで、何をしていたのか? T氏は全然覚えていなかった。しかし、夢はその先のことを教えてくれた。

 おばあさんはT氏を池のそばに立たせると、おもむろに袖から割り箸と糸を繋いだ簡素な釣り竿を取り出した。

「これで、先っぽにだ。ちくわをぶら下げておくと、ザリガニがようけ釣れるからやってみんしゃい」

 そういわれて、幼い頃のT氏は糸の先にあった釣り針にもらったちくわを引っ掛けて池にそれをたらした。じりじりと焼け付く太陽のおかげで、着ていたシャツは汗でぐっしょりになった。いくら木陰で、風があっても暑かった。糸を垂らしてから数分。何かが掴む感じがして引っ張り挙げてみるとこぶりなザリガニがかかっていた。

「ばあちゃん取れたよ」

「そうけ、そうけ。それじゃあ、同じようにしてみんしゃい」

「うん」

 これをおばあさんがいきている間、ずっと繰り返してきたのだ。捕まえたザリガニは食べるでもなく、釣りが終わる頃にそっと池に返していた。

 T氏はそれを見てすごく懐かしい気持ちになった。もうすでにいないとはいえ、自分の寂しさをどうにかしてやろうと考えてくれていたおばあさんの心情に胸をうたれるものがあった。夢だと分かっていてもうれしかった。

 子どものころのT氏が、もう夕方ということで捕まえたザリガニを池に返そしていた。最後の1匹を池にやろうとしたところで、そのザリガニの異変に気がついた。

「おばあちゃん。これは何?」

「ああ。それは脱皮。ザリガニは、脱皮をすることで大きくなるけん」

「ふーん」

 子供ながらそれは不思議な出来事であった。そのため、無知だったから思わず触ってしまった。

「やめんしゃい」

 大きな声でおばあさんに一喝されてしまった。普段温厚なおばあさんが大きな声を出したのでT氏はびっくりしてしまった。

「脱皮とは、命がけのことけん。触ったらそのまま死んでしまうけん」

 おばあさんの言っている意味が分からなかった。死んでしまうとはどういうことだったのか、幼い私には理解が出来なかった。その日は、おばあさんにつれられて家に戻った。

 

 夢は場面が変わった。今度はおばあさんに白い布がかけられていた。隣で母親が泣いていた。T氏は、どういうことなのか分からなかった。

 容態がおかしくなったのは2日前だった。ちょうど、ザリガニ釣りを終えて帰宅した後だった。夜中に胸を抑えて苦しみだし、急いで隣町のお医者さんに知らせた。そして、昨日慌ただしい中、ゆっくりと血の気が失せて行くおばあさんを見ながら、子供だったT氏は言いようがない不安に駆られた。どこかに行ってしまう。そんなきがしたのだろう。

 懸命な治療の甲斐もなく、おばあさんは昼頃息を引き取った。その時、大きな声で母親が泣いていた後ろ姿を眺めていた。


 そして、通夜をするため、おばあさんの衣装を整え、両親も黒い服を着ていた。なんだか、気味が悪い感じをT氏は受けた。怖くなって、家を飛び出した。行くあてはなかった。

 自然と足は2日前に訪れた池に向かっていた。釣りをしていたところにとぼとぼと行くと、そこにはおばあさんに指摘されてほっておいたザリガニがいた。しかし透明な抜け殻は出ていたもの、池にたどり着く前にザリガニは死んでいた。これで、ようやく自分がしてしまったことを悔いてしまった。触らなければ、ザリガニは死ななかったかもしれないし、おばあさんも死ななかったのかもしれないと思った。そこに因果関係など見いだせるはずはない。しかし、幼かったT氏はそう判断してしまった。そして、ザリガニの抜け殻を持って帰った。

 その夜、蒲団の中で人知れず涙した。


 夢から覚めたT氏は隣の妻を起こさないようにゆっくりと起き上がり、2階へあがった。そして、まだ鳥が鳴いていない薄やみの空が見える窓の下にある机を見た。ザリガニの殻はぼろぼろに崩れていた。それはもう修復できないぐらいに。

 T氏はゆっくりと椅子に腰掛けた。そして、考えた。どうして今になってあのような夢をみたのか。それは、小さな少年がいのちとはどんなに脆いものか始めた知ったキッカケに過ぎない。いつしか人は、自分が死というものを強く意識したことを忘れてしまう。それが当然だ。しかし、こうしてザリガニの抜け殻をみたことでT氏は自分の死を意識した日を思い出した。何か意味があるのかもしれない。ないのかもしれない。それはよくわからなかった。ただ、今は昔とは違う考えをもっている。おばあさんの死は、少なくとも自分のせいではなかったと。たまたま、そうなったものと。そう考えるとずっと胸に抱えていたよくわからないもやもやとしたものが、消えて行くのを感じた。窓から、朝を告げる鳥の歌声が飛び込んできた。